2014年12月26日
自分史
今の私の故郷は、高山の山小屋です。
両親が無くなった現在は、冠婚葬祭以外に
実家に帰る事は有りません。
小さい頃は、毎朝目が覚めると、家には誰もいませんでした。
家人は野良仕事に出かけたようです。
母親は有る事情で、ほとんど家にいませんでした。
小学校の授業参観嫌でしたね。雨が降ると嫌でしたね。
参観してくれる親が、傘を持って来てくれる親がいません。
中学時代に高校の育英金を受けたいと担任に相談したら、
君の家は資産が有るから駄目だと断られました。
家土地が有っても、実際、我が家はかなり御金に困っていたようです。
高校の学費だけは、どうにか両親から出してもらい卒業しました。
高校時代はいつも節約で、ほとんど遊んだ事が有りません。
その頃は、兄が貸してくれたラジオを聞いていました。
卒業したら上に進学をしたかったのですが、経済的に無理だと解っていたので
高校時代は何の気力もなく過ごしました。それに育英会もまた駄目だと。
それでも進学をあきらめられなくて、2部(夜間)の大学に行こうと思い
受験して受かりましたので、母親の伝で探してくれた会社で働きながら
通いました。
入った会社はその頃、勤労学生にとても理解が有り、
夜間高校や夜間大学に通う人が沢山いました。
勤労学生が多くいるのは、励みになりました。
家を出る時は、家から一円も持たされず、高三の春休みに
家を離れる前までアルバイトをして、バイト代を持って、
カバン一つでこの会社に入寮しました。
それは教科書代や授業料の一部になりました。
入学金は親に五万円ほど借りましたが、それは働いて全て返済しております。
その頃すでに働いていた姉が、私の事を不憫に思ったのでしょう。
スカートとズボンの着いたスーツを作ってくれましたので、
私はその洋服で姉と入学式に出ました。
今思うとその洋服だけが当時の私の唯一の物でした。
(それが有ったからこそ、入社式や入学式に出れましたので、
今でも姉には感謝しております。)
通学費用は無く、路面電車代15円も払えない日々でした。
もちろん徒歩で通学です。
食事代、部屋代、布団使用料は、給料からの後払いでしたので、助かりました。
初給料をもらう日まで、じっと我慢の子でしたね。
配属されたのは、工場の現場です。
熱い焼けたタイルが、流れてくるのをサヤから出し、選別する仕事です。
その仕事を半年ほどしたら、事務所に呼ばれまして次は
事務所の仕事をするようにと言われました。
いきなり輸出課に配属されました。
それから英文タイプが必要だからと、今の菊武学園の前身、菊武タイプに
通わせてもらい、英文タイプが打てるようになりました。
輸出入の書類、手紙を打つ仕事を卒業までしました。
現場から事務の仕事に変わるとは、自分自身思いもよりませんでした。
(続く)
両親が無くなった現在は、冠婚葬祭以外に
実家に帰る事は有りません。
小さい頃は、毎朝目が覚めると、家には誰もいませんでした。
家人は野良仕事に出かけたようです。
母親は有る事情で、ほとんど家にいませんでした。
小学校の授業参観嫌でしたね。雨が降ると嫌でしたね。
参観してくれる親が、傘を持って来てくれる親がいません。
中学時代に高校の育英金を受けたいと担任に相談したら、
君の家は資産が有るから駄目だと断られました。
家土地が有っても、実際、我が家はかなり御金に困っていたようです。
高校の学費だけは、どうにか両親から出してもらい卒業しました。
高校時代はいつも節約で、ほとんど遊んだ事が有りません。
その頃は、兄が貸してくれたラジオを聞いていました。
卒業したら上に進学をしたかったのですが、経済的に無理だと解っていたので
高校時代は何の気力もなく過ごしました。それに育英会もまた駄目だと。
それでも進学をあきらめられなくて、2部(夜間)の大学に行こうと思い
受験して受かりましたので、母親の伝で探してくれた会社で働きながら
通いました。
入った会社はその頃、勤労学生にとても理解が有り、
夜間高校や夜間大学に通う人が沢山いました。
勤労学生が多くいるのは、励みになりました。
家を出る時は、家から一円も持たされず、高三の春休みに
家を離れる前までアルバイトをして、バイト代を持って、
カバン一つでこの会社に入寮しました。
それは教科書代や授業料の一部になりました。
入学金は親に五万円ほど借りましたが、それは働いて全て返済しております。
その頃すでに働いていた姉が、私の事を不憫に思ったのでしょう。
スカートとズボンの着いたスーツを作ってくれましたので、
私はその洋服で姉と入学式に出ました。
今思うとその洋服だけが当時の私の唯一の物でした。
(それが有ったからこそ、入社式や入学式に出れましたので、
今でも姉には感謝しております。)
通学費用は無く、路面電車代15円も払えない日々でした。
もちろん徒歩で通学です。
食事代、部屋代、布団使用料は、給料からの後払いでしたので、助かりました。
初給料をもらう日まで、じっと我慢の子でしたね。
配属されたのは、工場の現場です。
熱い焼けたタイルが、流れてくるのをサヤから出し、選別する仕事です。
その仕事を半年ほどしたら、事務所に呼ばれまして次は
事務所の仕事をするようにと言われました。
いきなり輸出課に配属されました。
それから英文タイプが必要だからと、今の菊武学園の前身、菊武タイプに
通わせてもらい、英文タイプが打てるようになりました。
輸出入の書類、手紙を打つ仕事を卒業までしました。
現場から事務の仕事に変わるとは、自分自身思いもよりませんでした。
(続く)
Posted by ログハウス at 21:48│Comments(0)
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